会社概要

会社情報

商号株式会社二二商会(ニイニイショウカイ)
所在地〒006-0831
札幌市手稲区曙1条2丁目2番37号
電話番号011-682-6101
FAX番号011-682-4404
経歴明治34年10月1日 創業
昭和26年8月1日 会社創立
昭和61年4月15日 会社設立
資本金10,000,000円
代表者代表取締役 斎藤 太雅哉
取引銀行北海道銀行 創成支店
北洋銀行 本店営業部
業務提携日本機械工業株式会社
 各種消防自動車
株式会社寺田ポンプ製作所
 自吸式ポンプ 水中ポンプ
株式会社大阪サイレン製作所
 サイレン 回転灯 電子アンプサイレン 車両シャッター
阪国電機株式会社
 大型モーターサイレン サイレン遠隔制御装置
株式会社パトライト
 回転灯 電子アンプサイレン
トーハツ株式会社
 消防用可搬ポンプ
株式会社初田製作所
 各種消火器
株式会社十川ゴム
 各種ゴムホース
北海道富士電機株式会社
 電動機 各種電気部品
株式会社マルキンサトー
 鋼材
昭和電機株式会社
 風力機械
ユニペックス株式会社
 電子アンプ スピーカー
カナフレックスコーポレーション株式会社
 ゴムホース
日伸精機株式会社
 排気ホースリール
株式会社日本ストライカー
 電動ストレッチャー 自動心臓マッサージ器
ユアサ工機株式会社
 照明装置 伸縮ポール 油圧シリンダー
株式会社ジャロック
 クローラー式台車
ニチリンケミカル株式会社
 空気触媒セルフィール エコベース
加盟団体等札幌市商工会議所   会員
札幌手稲工業団地組合 会員
ニッキ会       会員
建設業許可北海道知事許可(般-2)石第10436号
鋼構造物工事業 機械器具設置工事業
とび・土工工事業
主な取引先札幌市ほか道内各市町村 各消防組合 北海道
大手ゼネコンほか建設業者 設備業者
電気工事業者 資材商社
自動車ディーラーほか電装業者
主な製品消防庁舎機械設備 各種消防自動車 救急自動車

 二二商会は明治34年(1901年)10月1日に合資会社として札幌区(現札幌市)南1条西3丁目に設立登記されました。初めに会社を興したメンバーは、第5代北海道警察部長を務めた陶不窳次郎(すえふゆじろう)、初代釧路集治監典獄を務めた大井上輝前(おおいのうえてるちか)及び民間企業出身の小原信二、香山昇の4名です。官庁から2名、民間から2名で2×2=4(ににんがし)で二二商会(にいにいしょうかい)という社名にしたと聞いています。

 この時代にはまだ消防用品や刑務用品を取り扱う地元企業が北海道になかったようで、内地(本州)企業から取り寄せる必要がありました。明治27年(1894年)には勅令として消防組織が全国組織として統一整備されることとなります。当時消防という組織の統括は警察署が担っており、開拓地の北海道で消防防災を広めていく中で、当時警察署長であった陶氏や大井上氏(当時の集治監典獄は警察署長や郡長、登記官などを兼務していました。)が大変苦労したことが伺えます。彼らは引退後、札幌市(当時は札幌区)の議員となり市政に身を投じながら、北海道の消防防災力を上げるために二二商会を設立したと考えられます。

 陶不窳次郎は嘉永5年(1852年)八多喜村(現愛媛県大洲市)に大洲藩菊山家の3男として誕生し13歳で陶家の養子となります。20代前半は板垣退助が開始した自由民権運動に参加し、板垣との面会で深く感銘を受け、自身も明治7年(1874年)には政治結社「大洲集義社」を設立します。翌年には板垣退助が作った「愛国社」に加盟、二月二二日の創立総会に代表委員として参加しました。板垣氏が参議に復活した折、氏の勧めで上京し元老院中書記生に任用されます。その間、大洲集義社のメンバーの中には実力行使を求める声もあり、結果的に解散することとなります。同志結合が叶わないことからその後、県官に任用され警部となり、かつての同志を取り締まる側になりました。陶は喜多郡長(愛媛県)、高知県警部、京都府警察初代警察本署長、山形県警察第4代警察本署長、与謝郡長(京都府)、山梨県警察第7代警察部長を経て明治25年(1892年)に北海道警察部長となります。札幌区会議員を務め、二二商会の代表として邁進しますが明治40年(1907年)に喜多郡久米村へ帰郷し余生を過ごし大正2年(1913年)に亡くなりました。国を変えていこうとする強い意志を持って愛国社に加盟した二月二二日という日に思いをはせた陶が、当時の思いを二二商会という名前に込めたのかもしれません。

 大井上輝前は嘉永元年(1848年)伊予大洲藩士の4男として誕生します。15歳でサンフランシスコへ留学します。明治元年(1868年)戊辰戦争が始まります。奥羽にも戦争が起こり、秋田藩が孤立した際に助けるべく秋田出身の実業家、山本誠之助が軍務官(新政府軍の軍政機関)に出願し、神戸で米国軍艦を買い入れました。かつて政府軍艦に搭乗し航海の術に長け、日本海にも詳しい井上干城(いのうえたてき、後の大井上輝前)及び井上の友人田島圭蔵(たじまけいぞう、後の永山盛重)と共に出帆し下関、新潟を経て秋田県土崎港へ着艦します。軍艦は高雄丸と名付けられ、当該3人は正式に委任され、海からの攻撃で陸戦を助ける活躍をします。この後、英国領事からの依頼で難破した英国商船の救護のため函館を経由して青森に向かいますが、北海道は直前に榎本武揚率いる旧幕府軍に占領されており、井上と田島は高雄丸とともに函館で拿捕されます。高雄丸はそのまま旧幕府軍の軍艦第二回天となってしまいましたが、井上、田島は敵の軍将と分かれば殺されていたところ、うまく切り抜け無事に帰ることができました。田島はこの後征討軍軍監を任ぜられ、黒田清隆の命を受けて榎本武揚に降伏勧告の受け入れの説得、会談を行うなど終戦へ向けての工作を行い、榎本から降伏決定を告げられます。箱館戦争の後は開拓使に出仕し、後に北海道製麻会社取締役(現帝国繊維の前身の一つ)、北海道炭坑鉄道会社の経営者なども歴任しました。ちなみにこの第二回天は宮古湾海戦で旧幕府軍が最新鋭艦「甲鉄」を分捕る作戦の途中、東郷平八郎が乗りこむ春日の砲撃を受け逃げる途中で座礁しました。井上は箱館戦争の後、大井上輝前と改名し、箱館府弁官(現通訳)をして対露渉外事務を務めます。明治8年(1875年)にはロシアとの交渉を進め、樺太千島交換条約の締結に大きく関わりますが、この条約締結に明治政府代表としてロシアへ赴いたのが榎本武揚でした。当時は社会不安により囚人の数が増え収容施設の増設と北海道開拓を目的に、次々と集治監(刑務所)が開設されます。明治14年(1881年)の樺戸集治監に続き、明治18年(1885年)には釧路集治監が川上郡熊牛村(現在の標茶町)に設置され初代典獄に大井上輝前が就任します。当時の集治監典獄という立場は、郡長、警察署長、登記官、地域行政、司法整備など様々な役割があり、大きな影響力があったと言われています。当時の囚人は炭鉱での労働、硫黄の採掘など苛烈な状況で働かせられており、大井上はけが人や死者が絶えない状態を目の当たりにします。彼は、集治監は懲戒のためではなく教化と更正のためにあると考え、監獄改良に尽力し様々な功績を残しています。しかしながら監獄改良に反対する意見もあり、不敬事件の濡れ衣を着せられ非職となりました。彼は明治32年(1899年)の札幌初の選挙に出馬し当選、明治41年(1908年)まで札幌区議会の副議長(現在の札幌市議会議長)の公職につき札幌の近代化に力を注ぎます。明治34年(1901年)に陶、小原、香山らとともに北海道の消防力を強化すべく二二商会の設立に出資し監査役の任を明治37年(1904年)まで務めます。明治41年(1908年)東京へ転居し大正元年(1912年)に65歳で亡くなりました。

 小原信二は嘉永6年(1853年)仙台伊達家の一族に生まれ、24から40歳まで警察に在籍、府県警部等を歴任した後、高田商会(明治三大貿易商の一つ)に勤め、北海道を担当し兵器や機械などの販売をしていました。彼は会社の設立の直前に札幌円山に鉱泉を発見し、二二商会の支配人の任にありましたが、離社し円山温泉「遊仙館」を開業します。現在では札幌円山公園に温泉があったという伝説の一つとなっています。残念ながら温泉経営はうまくいかず、精神的に追い詰められその後の消息が不明となっています。

 香山昇は二二商会に出資後2ヵ月程度で井林博政に出資株を譲渡します。

 井林博政は理事に就任し明治37年(1904年)に戸津高知へ譲渡するまで在籍します。井林は正岡子規の友人「七変人」の一人で、東京大学予備門時代の交友関係には多くの著名人がいます(秋元真之や南方熊楠など)。彼も大洲出身で明治22年(1889年)に慶応義塾を卒業後北海道へ渡り北海道の水産の発展に大きく寄与していきます。水産団体「北水協会」の理事も務め、小樽水産高校の前身・北海道庁立水産学校の創設にも関わりました。正岡子規は、彼を七変人評論の中で「義気あり交わる事比々ならず」、勇気と才力は90点、色欲と負け惜しみが80点、勉強が20点と評しています。井林はその後、北海道や東京でいくつかの会社の設立に関わっていきました。

 戸津高知(とつたかとも)は明治37年(1904年)に井林博政から出資分の譲渡を受け二二商会と関わります。彼は伊達藩士の長男として生まれ、北海英語学校を経て札幌農学校へ進学します。北海英語学校は浅羽靖らが創立した学校で、北海高校の前身、北海学園の礎となる学校です。北海英語学校中等部教頭、北海中学校校長を歴任した後、札幌商業学校(札幌商業高校、現:北海学園札幌高等学校)を創立し初代校長に就任します。戸津は自由主義的な教育方針で、いわゆる「札付き」の生徒を受け入れて善導するという、生徒の将来を第一に考えた教育を行いました。昭和23年(1948年)には北海学園名誉学園長になり、札幌市議会議員、北海道議会議員、北海道議会議長も務めました。ちなみに北海高等学校の校歌の作詞は土井晩翠(どいばんすい)で「荒城の月」の作詞をした詩人ですが、戸津とは仙台の同郷・同級生で彼を頼って作詞を依頼したと言われています。

 その他、照井賢次郎、佐藤保明がメンバーとなりますが、詳細なデータがありません。

 明治38年(1905年)に二二商会はいったん解散しますが、明治43年(1910年)に齋藤栄吉、羽鳥國次郎、齋藤治平が(新)二二商会を立ち上げます。齋藤栄吉は官庁御用達の岡田商店で番頭を務めていたということです。岡田商店(後に岡田合資会社)は岡田左助が社長で札幌区(現在の札幌市)南1条西3丁目2番地にあり、開拓使工業製品や葡萄酒、缶詰、農産品、監獄署生産品、消火器等の販売を行っていました。明治27年の資料には消火器のデモを行ったところすこぶる好評で瞬く間に注文が入りその中の注文者に永山盛重の名前があります。ちなみに岡田左助はいくつかの銀行の役員なども務め、また現在の中島公園に岡田花園を作りそこに居を構えていました(中島公園内日本庭園からキタラあたり及び鴨々川西側までで天文台は花園の築山でした)。栄吉が二二商会を引き継いだ理由については資料がありませんが、岡田商店が二二商会と近所であったこと、取引先であったこと、陶や大井上が官職であった時から取引があり知人であった、などから栄吉に声がかかったのではと推察しています。その後栄吉の娘齋藤なみ、齋藤譲一(なみの長男)、齋藤雅之(譲一の次男)を経て現在の私齋藤太雅哉へ引き継がれてきました。

 各メンバーに関わる情報をお持ちの方は、例え小さな情報でも構いませんので、ご連絡を頂けますと幸いに存じます。

                                   令和6年2月2日

  株式会社 二二商会   

代表取締役 齋藤 太雅哉

CONTACTお問い合わせ

011-682-6101

bnm123jkl456@gol.com

お客様からのお問い合わせをお待ちしています

RECRUIT採用情報

採用情報はこちら